2008年 02月 24日
ロブ=グリエ氏死去

全然地図とかとは関係のないお話です。
19日のお昼頃、仕事の息抜きに何気なくasahi.comを見ていたら「アラン・ロブグリエ氏死去 仏ヌーボーロマンの代表作家」のニュースを発見した。
大学時代に彼のことを知った。卒業論文のテーマに選んだのでに日本語に訳されている作品の多くを読んだ。そのほとんどは絶版となっていたために神田の古本屋に通って(神保町でバイトをしていたので)せっせと集めた。とにかく思い出の作家である。
「ヌーヴォー・ロマン」と呼ばれた彼らの作品は日本でも当時はブームになっていたようであるが、もちろん生まれる前のことなのでそのことについてはわからない。僕自身は彼のことを好きであるが、彼の作品がこれから再び多くの人に親しまれたり、ブームになったりすることはないだろうと思う。もう終ってしまったことなのだと思う。しかしこれだけ多くの新聞に死去のニュースが取り上げられたり、ブログの記事として書かれていることから判断すると、やはり相当な影響力のある人だったんだなあと思う。
ロブ=グリエ氏への世間的な評価(記事の内容や様々な紹介文)と彼が行おうとしたこと、語ろうとしたこと、表現しようとしたことは残念ながら一致していない。世間的には、やはり「難解」「前衛的作風」という言葉でくくられてしまう。ようするに小難しいけどなんかすごそうな作家さん(分かる人にしか分かんないよね)という感じで。そして彼のことを語ろうとすればするほど、「前衛的作風」を好むやヤツと見られがちである。
しかし、彼は決して難解なこ作品を作って前衛を気取っていたわけではなく、純粋に(大衆的な)小説としての新しい小説(エンターテイメント)ということを追求していたはずである。難解と言うならば、彼の書いている内容だったり、意味しようとしていた世界ではなく、「読み方」「楽しみ方」なのだと思う。
いろいろ書きたいこともあるけど、また違う機会にします。
ご冥福をお祈り申し上げます。
※写真は僕が一番美しいと思う「嫉妬」という作品です。
2008年 02月 11日
床屋でまちについて考える/雪/ソワレ

2月8日(金曜日)
思い立って、ご近所の床屋さんに髪の毛を切りに行きました。80年続いている床屋さんで、洋館みたいな建物で、外側も店内もとってもすてきです。
髪の毛を切ってもらいながら、ご主人のお話を聞いていました。京都のまちをどんな人々が支えていたり住んでいるか、そういった主となる人々は時代ごとによって変わっていくということ。そういう流れのようなものに応じたり、逆らったりしながらこのまちは変わっていくのだなあと思った。すべての変化が善であったり悪であったりということはもちろんないけれど、目に見える変化や目に見えない変化を繰り返しながら成り立っていることを考えるとちょっと不思議な気持ちになります。
地図をつくることも、そういう変化を記録していくことにもなるんだと思います。こじつけだけど。

2月9日(土曜日)
朝から雪が降りました。真剣な雪だったので、窓の外は真っ白になりました。京都タワーも見えなくなるくらいの雪でした。

2月10日(日曜日)
お客さんを連れて、八坂神社〜建仁寺〜祇園などをご案内。一休みに喫茶ソワレさんに寄りました。店内は青い光につつまれて不思議な雰囲気です。ゼリーポンチをいただきました。ゼリーとソーダのほどよい関係が美味でした。平日にまたゆっくりとおじゃましたいなと思います。
この三日間の活動報告でした。
2008年 02月 08日
節分会に行ってまいりました その2(2月3日)
2月3日(日)は、冷たい雨が降り、しっぽりと冷え込む一日でした。
でも、なんとか3箇所の節分行事を回ることができました。
まずは八つ橋で有名な聖護院門跡から。
ここは山伏の総本山。かつては聖護院のある東大路あたりから鴨川までがうっそうとした森になっており、この森の鎮守のお社が熊野神社であったとか。また、このあたりは古くは聖護院村と呼ばれ、ここで取れた大根が「聖護院大根」と呼ばれていたそうです。

聖護院では、追難式という「鬼をやっつける」儀式を見ました。山伏のみなさんがお経を唱え、なにやら儀式をされているところで鬼が暴れます。丁々発止(というほどではありませんが)のやりとりの後、鬼はしだいに力を弱めて倒れてしまうのでした。最後にスピーカーから「えー、鬼は調伏されたようです」とアナウンスがあり、年男・年女のみなさんと鬼さんたちが、なかよく並んで豆を撒いてくれました。写真はその豆まきのようす。
鬼さんは一番人気モノでした。
鬼は力が強くて、遠くまで豆を投げてくれるんですよね。
豆まきが終わり、退場するときも、鬼さんは手をふって歓声に応えるなど、茶目っ気たっぷりでした。ご接待の甘酒をいただいて、須賀神社へ。


なにやら不思議な装束の方がいらっしゃいました。
懸想文(けそうぶみ)売りと言って、節分のときだけにいらっしゃるそうです。顔を隠し、手には懸想文を持ち、肩に担いだ梅ノ木には文が結んであります。この「懸想文」を鏡台やたんすの引き出しに人に知れないようにそうっと入れておくと、顔かたちが美しくなり、着物が増えて、良縁があると書かれています。迫力でご利益を感じました。金1,000円也。
バスに乗って移動し、清荒神護浄院へ。(ここの写真は撮り忘れました…)
火の守り神「三宝清荒神尊」にお参り。実家では、台所にこの清荒神さんのお札をお祀りして、毎晩ごはんをちょびっとお供えしていました。おばちゃんたちにご接待の飴湯をいただいて温まり、最後の目的地へ移動。


最後は、紫式部邸宅跡と伝えられる廬山寺です。ふだんはひっそりと静かな境内に、ちらりほらりと参拝客がいるかどうか……なのに、この日は門から人があふれんばかりの賑わい。ここでは「鬼踊り」を見物しました。
カメラを手にした人垣のなか、赤・青・黒の鬼たちがのっしのっしと入場してきます。なんだかぽっちゃりしたかわいらしい鬼たちです。この後、鬼たちは舞台に上り、太鼓の音に合わせて四股を踏むような踊りを披露してくれました。
節分の行事に参加したのは初めてだったのですが、お寺も神社もたくさんの行事があるものだなぁと驚きました。季節を分ける=節分は、昔の人にとって大切な行事だったのだと思います。
家に帰ってからは、太巻きといわしで節分の食事をして、豆をポリポリかじりました。
豆っておいしいですよね。
(研究員1号)
2008年 02月 05日
節分会に行って参りました その1(2月2日)

2月2日は、夕方から壬生寺と法輪寺(達磨寺)に行きました。まずは壬生寺から。


そのまま歩いて円町近くにある法輪寺(達磨寺)の節分会に行きました。



がらがらをまわして、運がよければ大きな達磨がもらえるようですが、僕は下から2番目も「懐炉」が当たりました。ここでは、ハト麦茶の無料接待を受けられます。甘くてあったかくておいしかったです。おみやげに「ダルマ焼き」を購入して帰りました。
2月3日は、聖護院〜須賀神社〜盧山寺〜清荒神護浄院に行きました。いよいよ豆まきです。研究員1号にバトンタッチします。
2008年 01月 30日
まちを支えるシステムみたいな何か

京都で日々暮らしていたり、お仕事の打ち合せで大阪などにもでかけたりするが、やはり関東とは違う何かを感じる。ときにそれは、「異国的」な感じさえもする。阪急電車のホームの音だったり、喫茶店での話し声だったり。
もちろん現代日本に生きてきて、今更「カルチャーショック」を受けることは少ないのではあるが、「カルチャーショック」に至るまでもいかないほんの僅かな差異を感じる。それは、言葉で「これこれこういうところがやっぱり東京とは違うよねえ」と言えるものではない。それらはまちのなかの様々な場所の端っこにこびりついている。
おそらく
それぞれのまちに住む人々の歩く早さのようなものであったり、話し声の大きさや話すときの間のようなものであったり、そういう意識下の何かもやもやしていたりどろどろとしている「間」みたいなものだと思う。そういったいろいろな「間」みたいなものが、それぞれのまちをユニクなものとしているのかなと思う。だから世界中にマクドナルドやスターバックスがあっても、それぞれのまちが交換不可能なものになっているのだと思う。きっと文化や言葉ではなく、そういったまちのシステムみたいな何かがまちを支えているのではないかと思う。
そういったよくわからない何かが伝わるような地図をつくることができれば面白いんですが。